ちべものお蔵だしー田村茂写真集 チベット
ラサに入った外国人の記録というとダライ・ラマ政権下では、日本人では江本嘉伸”西蔵漂泊”(上下)、西洋人ならホップカーク、"チベットの潜入者たち―ラサ一番乗りをめざして"があります。
ダライ・ラマ政権の終焉近くにラサにいた外国人は、日本人では西川一三、木村肥佐生両先生、西洋人ではおなじみのオーストリア人のハラー、オーフシュナイターに英国人のフォードがいたことが記録されていますが、彼らが退去したあとのチベット訪問は50年代半ば以降は中国政府の招待によるもの、そして80年代初頭の観光旅行解禁と続きます。
ここでは1949年以降、中華人民共和国成立後にチベット入りした記録を中心に。
田村 茂写真集 チベット
1966年発行。1965年にチベット自治区を訪問した際の写真集。
ちなみに、ダライ・ラマがインドに亡命したのは1959年。チベット自治区が成立したのは1965年。
この時代のチベット旅行について、胡海燕他”西蔵50年 旅游巻”(民族出版社、北京、2001年)をみると、
1954年 中国・インド間でチベット地方とインド間の通商交通協定が締結。これによりカイラス、マナサロワールへのインド人巡礼が認められ、当年は4万人近くが巡礼に(1961年に中断、81年に復活)
1959年 政府の許可があればチベット訪問が可能に。ただし記者や作家、国家重要人物に限られる。これにより同年8月、人民日報主催により11カ国17人の新聞記者、文化人がラサ、シガツェ、ツェタンを訪問
これが戦後初めての外国人のラサ入りになるんでしょう。
田村氏は1965年7ー8月に、人民日報の記者とともに、日本電波ニュース社記者、「赤旗」北京特派員の日本人3人に加えてオーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、アルバニアの記者と訪問。行き先はラサ、ギャンツェ、ツェタン。
当時は、中国政府の招待でなければ中国には行けませんでした。(これ以外には、戦後直後あたりには日本共○産○○党運営の「人民艦隊」とかいう密航船が長崎からでてたらしいですが、調べた限りでは今は”なかったこと”にされているみたいです。)
招待されるのは、当然「友好人士」と言われる中国共産党シンパの方々で、この写真集も「ダライ・ラマの下での封建的圧制」と「中国共産党の下での近代化、民主改革でチベットの人たちは皆明るい希望をもって前進前進」で一貫してます。写真は本の中からの毛沢東の肖像を掲げるチベット農民。あわせて「解放後も宗教の自由は保障されている」んだとか。
このあと、1966年5月から文化大革命が開始されることになります。宗教は否定され、寺院は破壊され、皆が皆を外国勢力のスパイではないか、反動勢力ではないかと疑う時代。大多数の中国人(それにチベット人も)があの頃には絶対に戻りたくないという時代が始まります。
そういう視点でみると、この写真集でもとりあえず寺院はまだ破壊されていないようですね。
ま、外国人に見せられるところはそうだった、ということでしょうけど。写真はここで撮影された当時のギャンツェのパンコル・チューデ。
88年に私が最初にギャンツェに行ったときには、ここも文革の破壊から必死に再建中だったっけ。これからの悲劇はここではうかがい知れないのは当然だけど、ただ、空の碧さだけは今と変わらなかったんだなぁと・・・。